境界線(バウンダリー)という言葉をご存知だろうか。他人からの評価が気になる、NOと言えない、相手の要求・要望に応えようとして自分の気持ちが置いてけぼりになる、しんどくなってしまう――そんなことはないだろうか。人間関係に悩んだり苦しくなってしまったりすることが多くて、自分はそれに向き合うことが必要なんじゃないかと思った。
そして、ある一冊の本を読んだ。そこにはこんなことが書かれていた。
自分の要求をはっきり言葉にすることは、他人との間に境界線を引くこと。健全な境界線を引き、それを維持することは、人間関係を築いていく上での責務である
ネドラ・グローバー・タワブ『心の境界線』より要約
ずっと私は、要求を伝えることイコールわがままと思っていた。でも、そうではなかった。
要求を言葉にすることは、自分が存在することに付随する責務であり、相手に察する労力をかけないためにも必要なことだったのだ。
何も言わないほうが楽だった
たとえば、相手に腑に落ちないことをふいに言われたとき。どんな反応をする人が多いのだろう。笑って済ませるにもいろいろある。すぐに言われた言葉と自分を切り離して冷静に判断できる人。そんな見方もあるのかなとしなやかに受け止められる人。そして受け入れたふりをして傷つき、心理的に距離を置いてしまう人。
私はというと、いちばん最後。自分の気持ちや希望を言うより、反論するより、言うことを聞くことが楽だと思っていた。相手を困らせたり、うっとうしがられるリスクをとったりするよりも、気持ちを後ろにしまい込むほうがよかったからだ。でも、そんなことは長くは続かない。100%受け入れることは100%の拒絶と地続きだった。
本にはこんなふうに書かれていた。
「自分の要求を伝えることは、相手にも『断る自由』を与える行為」
「境界線を引くことは自分自身を大切に扱うこと」
「相手の頼みを断ったり、自分の要求を伝えたりするときには、一時的に不安や罪悪感を覚えることもある」
その文章を読んだとき、古い痛みがふと浮かび上がってきた。
昔、家族に本心を話して、否定されたことを思い出したから。学校で困ったことがあっても言いづらかったり、どうもその方法はまずいんじゃないかと感じる解決方法を「やってこい」と指示されたりする。言うことを聞かないと脅される。ずっと就きたかった仕事に就いたら「つまらん仕事」と返される──。
そんな積み重ねの中で、私は自分の心そのものがわからなくなっていった。「何がしたいの」「どう感じているの」と聞かれても、考えても分からないことが多かった。だって相手が聞き入れてくれることはないから。言っても否定されるなら、言わないほうが傷つかない。
そう思って、本当の気持ちはひた隠しにしてきた。それで、相手への伝え方だけじゃなく自分との対話の仕方もだんだんとわからなくなっていった。
でももちろん、すべての人間関係がそんなふうになってしまうわけではない。
言いづらいことを口に出して言えた
本を読んでしばらく経ったある日、とある振る舞いに対して「やめてほしい」と言ってみた。口にしたとき、自分の気持ちが少し浮き上がるのを感じた。今までは黙って笑って、あとからモヤッとして、でもまぁ伝えなくていいやと諦めるだけだったから。
些細なことだったけれど、真剣に言った。そして相手は、ちゃんとやめてくれた。
もしまた同じことをされたら、諦めずにまた言えばいいのだ。そう思うと、驚くほど楽になった。
「要求は伝わらないもの。言わないほうがいい。言うことは相手を否定すること」という思い込みは、過去の痛みから覚えてしまった、そして汎用性があるとはかぎらないルールだったのかもしれない。
ジャーナリングは境界線を描き直す時間だった
私は毎日手帳を開いて、ジャーナリングを続けている。日付を書いたら、思い浮かんだことをそのまま書く。心のモヤモヤ、嬉しかったこと、おもしろかったこと。思いつくままに書きながら、ふと思う。私は少しずつ、自分の心に気づき始めているのだと。
身近な人に否定されて本音がわからなくなるのは、弱さでも怠けでもない。境界線が傷ついてしまったのだ。そしてそれは学びながら、ゆっくりと描き直せるものだと思う。
境界線の学びを通して、ジャーナリングを通して、私はようやく「私」という輪郭を取り戻しはじめている。

